駄作パラレル読みきれず短編 1-1



その日もぼくは、いつものようにネット麻雀『天凰』で遊んでいた。
本格的な鬼打ちをやめてから久しかったが、同時に始めたバイトも、結局長くは続かなかった。


天凰はやはり手軽でよい。
決してもう以前ほど熱心に取り組むことはなかったが、毎日数ゲーム打ち続けることで、少なくとも気を紛らわすことはできた。


「今日はもうこれで終わりにしよう…」
 3 戦目のラス前にして、集中力が切れてしまっている。


牌効率なんて、すっかり忘れてしまった。だから今は開き直って、“いかに自分が楽しめるか効率”で打つことにしている。
それでも、ひどい放銃というのはやはり心にくるものがあって、その場から逃げ出したくもなる。


オーラスは、半ばあきらめていた。
なんとなく字牌から切っていったところ、気付けば河には 8 枚のヤオチュー牌が並んでいる。


「流し満貫いけるじゃん!」


ラス抜けへの執着心などは、もはや残っていない。
それどころか、無理やり流し満貫や国士を狙う作業というのは、今のぼくにとって数少ない楽しみのひとつでさえあった。


捨牌も三段目に差しかかろうかというところで、上家と下家からリーチがかかった。
手牌には、まだ  と今ツモった  が1枚ずつ残っている。さすがにどちらかは当たるだろうという気はしていたが、今さら引く理由などない。


マウスカーソルが近いからという理由で、ノータイムで  を切ったが、ロンの声はかからなかった。


その後は、立て続けに  がやってくる。
河に 3 枚並んだとき、ふと懐かしくなった。
「これを『ヒドラ』とか呼んでたプレーヤーがいたなぁ」


 4 枚目を持ってきた時は、思わず笑ってしまった。
流し満貫が成立しそうだということよりも、このどうでもよい光景そのものが楽しくてしょうがない。


ひとしきり笑ってから河にそっと  を置いた次の瞬間、モニターが急に白く光った。
尋常ではない発光に耐え切れず、反射的に目を逸らす。
「 6 年間使い続けてきたこの 14.1 型ノートパソコン、ついにぶっ壊れたんだろうな…」
頭ではぼんやりと、そんなことを考えていた。


ようやく落ち着いたので、まだ痛みの残る目をそちらに戻すと、信じられないことに、画面一杯に  が映っている。
拡大された羽の部分の○が気持ち悪くて仕方がないのだが、そんなことよりも、何か喋っているように見えるのが気になる。
「というか、これはそもそもなんなんだよ…」


先日新調したヘッドセットを付け直してみると、一瞬でその謎は解けたように思えた。


「ヒャッホー! 俺は天凰の神様ナンダゼー!!!」


この無機質な声、間違いなく『スミ』のイタズラだ。





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頭がどうかしてるんですが、続きます。

SSまとめサイトの存在意義



運営を放棄したことについては、申し訳ないとは思っています。特に、信頼して画像を提供して下さった方々には本当にもう…
ただ、悔恨というのはありません。これは辞めたことに対してではなく、始めたことに対してというべきでしょうか。


「自分が望むものがなかったために急きょ不完全な原形を作り、そのまま続けるうちに技術も気持ちも限界を感じ、自分にとっての価値が薄れてしまった時点で断念した」


実に身勝手ですが、そこにボランティア精神があったなどとは、やむをえない事情以外で辞めた以上は主張しようもありません。


決して無意味ではなかったとは思います。実際に活用している方の声を目にする耳にする、そんな機会もありました。
でも、自分が携わる限りこの分野は発展しない。そうも感じていたんです。


そのため、同様のもの、いや、あれよりよいものを作る人が現れてほしいと考え、なるべく原形をとどめない形でデータだけを残しました。情熱もしくはスキルで僕を上回る人にとって、そう難しいことではないはずです。


『誰もやっていない、とりあえずやってみた、やっぱりダメだった』
『誰かがもうやっている、でもあえて同じ分野でやってみる』


これらが許されない風潮があれば、天鳳の周辺部分は決して発展しないでしょう。
何よりの悪というのは、決してベストではないひとつのものが、さもその分野の代表的存在であるかのようにふるまい続け、可能性を秘めた後発組の出現を妨げることであると思うんです。たとえば、ウン年前のネット麻雀界のように…






自己弁護、つのさんがいかに偉大か、そして僕は長村ビッグさんの掲げた天鳳関連ツール計画を支持している、まとめるとそんな感じです。

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僕が以前に一度ブログ、というかブログの形をしたものに手を出したのは半年前ほどのことで、当時はまだ天鳳系ブログも今ほど多くは存在しなかったし(独自にいろいろと調べた)、その中でもぜひ読み続けていきたいと強く思えるものは数えるほどしかなかった。


それならば自分で書いてみよう、と。
文章を書くことが得意ではなかったが好きではあったし、数分で終わるブログ巡回後には時間的にも精神的にも余裕が残っていたので、読み手と同時に書き手になることでブログライフの充実を図ろうしたのだ。
開始が大いなる自己都合ならば、自己都合による休止も早かったけど。


でも、今はいろいろと状況が違う。
何より、天鳳系ブログの数は大きく増えた。
それらを把握するのも、理想雀士さんの功績によって、より容易になった。


さらには、優れた書き手の天鳳における実力が向上したり、優れた打ち手の書く記事が充実してくるといったケースもあった。
ほかにも、ブログの中の人を直接あるいは間接的に知る機会だって増えた。


その結果、巡回するブログの数が激増した。
一度に全部を回り切ることや一件ごとにコメントすることも難しくなってきているし、いずれは自分のブログに記事をアップする前に疲れ果ててしまう日だって出てきてしまうかもしれない。そう思わせる、以前とは違う何かが確実にある。


と、こんなご時世だからこそ、わざわざ見に来たりコメントを残してくれたりする人がいることには、本当に感謝しなければいけないし、申し訳ないなとも感じる。






打ち手としても書き手としても何も生み出さなくなった自分よりも、よっぽどためになることやおもしろいことを書く。
そんな価値あるブログが今の天鳳ブログ界には段位・知名度を問わず多く存在するので、それらのチェックをしてみるのは大事ことです。きっと何かが見つかるはず。


そして、唐突に再開した準備不足といつものサボり癖からそれらへのリンクにすらまだ着手できていない僕は、天鳳ブロガー失格です。


こんなんなのに、あらやだ理想さんのリンクに追加されてる…
というかそもそも、これからもクドーと名乗っていいのか…

フリー打ってきた



それ自体については、なんてことはない話です。
でも、客として雀荘に行ったことも家族・友人との麻雀で誘いを掛けたこともなかったので、昨日が初めて自発的に牌を握った日だったんです。
初体験から 20 年目にして。


僕が麻雀を好きになり切れなかったのは、「これゲームとして不完全なんじゃ…」と、途中で感じてしまったせいに他なりません。
ルールがあいまいなうえにそこにマナーも絡んできて、顔見知りでも知らない人同士でもいさかいだとか特例だとかが頻発する。こんな不毛なゲームがあっていいのかと、当時は本気で思っていました。


「ポン優先だけど遅いのはダメ?クイズの早押しボタンみたいなのあったらいいのに。人の捨牌に待ったはダメだけどツモ番は長考可?(天鳳や将棋みたいな)持ち時計制度もあったらいいのに。こぼすとまずいのになんで牌を上方に積むの?別に並列でも困らないよ。完先って何?ややこしすぎるってこんなの。」


幼き日に覚えた麻雀というゲームに対するあの不信感は、果たしてガキの杞憂だったのか?
少なくとも今回の経験からは、その答えを出すことはできそうにありません。
そしてその答えが出せないまま、僕のフリー人生は幕を下ろすことになりそうです。






44...  m9(^Д^)






こうして、相対的に「天鳳はなんて素晴らしいゲームだったんだ!(金は減らないしルールは単純明快だし相手を気にしなくていいし)」とあらためて感じることができたので、今回の経験は有意義であったとは言えそうです。

第一部終章と第二部序章



鳳凰卓が稼動した以上、クドー垢に固執する理由はなくなりました。
一定数の特上成績・段位・レーティング(算出基準こそ変わらないものの、高 R 同士の対戦が容易に実現するようになる)、いずれも価値が一変することは必至で、それまでに残してきたデータは重要な意味を持たなくなったためです。


 2008/3/4 の R 制限以前の特上成績が語られなくなったように、特上そのものの成績がなんの参考にもならなくなる時代はきっと訪れます。(既にかな?)
特上平均 2.35 と鳳凰平均 2.40 などの単純比較もできず、やがて鳳凰卓の動向にしか興味を持たれなくなることでしょう。


そしてそれ以上に大きかったのが、『過去の自分よりも成長した』という実感をデータから得られる機会を失ったことです。





末期はもはや他人との比較などという興味もなくて、いかに自分が納得できる数字を出せるかだけを考えて打っていました。(成績も打牌選択も一般的に強いなどと認めらるであろうものとは到底かけ離れていたが、当時の僕にとっては麻雀=天鳳だったために、極端な方向に進むことへの自己満足的な希望を見出し、また終着点に近付きつつあった)


もしこれからの特上で何かしらの項目において上回ることがあっても、「特上のレベルが下がったから」という一言で片付けられるので、もう過去の自分と戦うことはできません。


と、ここまでは 2/20 以前に考えていたことです。
個人的に受け入れ難かろうが、鳳凰卓の稼動というのは天鳳的には当然前進なわけですし、強豪が揃う舞台へのちょっとした興味もありました。
そこでひとまず、ベストの条件が揃った日に特上で久々の鬼打ちしてみたら…感じたことは、おおよそひとつ前の記事の通りでした。


その日の成績自体は悪くなかったんです。でもそれは麻雀名物の『ド短期における偶然』であって、中身がもうダメ。たった数ヶ月なのに。
一人麻雀としてすら思うようにはいきませんでした。半ば予想はしていつつも、やはりショックです。


「今回また天鳳と付き合おうとは決めたけど、どうせ鳳凰未経験で資格なしという同じ条件から始めるなら、パンニャーで修行積んでからでよくね?
クドーで確変きて R40 も上がれば鳳凰卓の資格は得られるけど、こんな雑魚が混じる鳳凰卓とか当初望んだ舞台じゃないわけだし。
それに上がろうが下がろうが特上で打った瞬間に失うものはそれなりにあるよ?」


という自問自答の結果、元の垢のほうを保存にすることになりました。長く使ってきたHNではなく、天鳳でIDを作る際に適当に決めただけなので、こだわりなどもありません。
特上まで遊ばさせてもらった以上はどのアカウントを消されるわけにもいかないので、ことあるごとに打ちますが。


これからは平均順位重視でやってみるとかそういう話でもないのですが、これを機に今度はもう少し別の楽しみ方・取り組み方をしたいと思っています。


そして願わくば、過去の自分といずれまた戦ってみたい。
自分自身の手によって再現できる気はまったくしないので、誰かクローンみたいな打ち手が現れてくれないかな(/ω・\)

クドーなんていなかった



福地先生も配信で似たようなことを口にしていたと記憶していますが、麻雀という娯楽も勉強やスポーツと同じで、継続して取り組んでいないと一定の質を維持するのは難しいです。


そんなことは当然理解していたつもりですが、身を持ってブランクというものの存在を痛感したのは、実に 8 年ぶりの出来事かもしれません。


たかが数ヶ月でブランクか! と鼻で笑われそうですが、自分で一度区切りを付けてしまったものに再度取り組んだ記憶がほぼないので、これはもうどうにもなりません。


『熱しにくく燃えやすく冷めやすい』
という人間としての欠点のため、期間よりも戻ろうとする熱意(人より短い期間で人より集中的にあほみたいに打ち込むので満足してしまう。その落差が激しすぎてもう戻れる気がしないので手を出さない。もしくは手を出してみるがやはりしんどい。)のほうが課題になってくるようで…


簡単に言ってしまえば、麻雀も天鳳も難しくてしょうがない。


▽ちょっと難しい牌姿を貰うと、もう何を切っていいのか分からない。(テンポが悪い→時間が足りない→誤打、もしくは長考して誤打→仕方なく撤収)
▽リーチを受けていざ河を見てもその並びに何の意味も感じられず、ひとつの塊にしか見えない。(それら現物を頼りに最も当たらないであろう牌を切ることは可能)
▽そもそも“クドー”として特別にどうしていたかをほとんど覚えていない。(ならそれを考えなければいいのに、幻影のマネを中途半端に試みて死亡)


近況はこんな感じで、 1 年半前の特上で R1700 台だった頃よりもかなり打てます。


福地先生やさくらこさんなんかは本当にすごい。

対応・進化をし続けるのもそうだけど、麻雀を好きであり続けるところから見習わなければ。

ヨンマ鳳凰民のHN変換をなんとかする辞書



リハビリがてら作ってみました。
http://tenhou7.s350.xrea.com/dic/houou.html


天鳳・麻雀辞書のほうも、長村ビッグさんがわざわざ DL 環境を残しておいてくれていたので、こういう小物を組み込みつつなんとか整備したいところですが…